最後まで。

Photo by Adrian Moise on Unsplash

時々そうできないこともあるけれど、なるべくなら終わりを見届けたいと思っている。

自分で息の根を止めること。自殺ってんじゃなくて、関係を切る、ということ。

言っても聞いてくれない気がする相手なら言わないこともある。理解できなそうな相手にも言いたくないことがある。言うだけの愛情がもう無くなっていることもある。逆に言わないことが愛情表現のこともある。人間関係というものは一番ややこしいのは確かだね。

 

結構いい値段でそろえた洋服があって、メルカリだかヤフオクだかに出してみても売れなかった。値段設定が間違っていたのだと思う。カテゴリーを間違えたのかも。とにかく、私だったらこれくらいなら買うかなと思う値段を付けても買い手が付かなかった。

洋服によくある。ブランドとはいえ、自分の中での価値と他人の価値観がずれてしまうのである。思い入れがありすぎる。大切にしすぎてしまう。子供とかペットとか彼氏彼女の「うちの子世界一可愛いの~」のあれ。

世に頷いてもらう必要がないならそれが平和で一番良いと思う。

それで、でも自分ではどうしても着れないからゴミにした。無料であげるという手もある。確かに。でも、私は自分が「これ好き♡」と思って買ったそれらの息の根をきちんと止めることにしたのだった。

人間関係は物との関係と違うだろうか。対人だとお互いに意思が働いているからより崇高とも言えるかもしれない。その分思惑がすれ違いややこしくなりがちだろう。殺人なんてものはすれ違いの果てだ。…崇高? うん、うん。

だから、とにかく、『関係』の息の根を止めてあげようということ。

たとえば、私が、先の私が売ろうとして売れなかった洋服だとしよう(私は節操なく擬人化しそれに乗り込む)。私はまだ私(ややこしいので主人としよう)が着てくれることを待っている。キラキラした目で、じーっと主人を待っている。暗いクローゼットの中、次はどんな場所に着て行ってくれるのかなぁとわくわくしている。

一方の主人の私。うん、あれね。あの子ね。すごい可愛いよね。着るとみんなにほめられるんだよね。でもね、なんかあんまりって言うか……うまく言えないんだけど、あんまり着る気分じゃないんだよねぇ。すごい良いとは思うんだけど。思うんだけど、今の自分の気持ちにフィットしないっていうかさ。なーんて言うかなぁ。ほら、私髪切ったし、前と似合う服が変わっちゃってね。そのうち着ようと思ってるんだけどね。

あー

自分で書いてて、書きながら泣きたくなってきた。

もうその服は捨てたので無いです。無いですけど、ちゃんと成仏させてやれてよかったと思う。ずっと、数年着なかったから。別にミニマリストは正義ではないと思うけれど、蔵状態もどうかと思うから(蔵があるなら別かもね)。

 


この関係って何?

って思ったり言われたり言ったりする恋愛はどうだろう。私は今、特に恋愛をしていないし、しなくてもいいって思って恋愛からかなり遠ざかってしまったから「この関係って何?」のドキドキやらひやひやからはだいぶ遠い。遠いけど、思い出しても心臓がぎゅってなる。決定的な言葉や約束なんていらない、私は大丈夫、ちゃんと信頼関係があるし、意思疎通もできている。

でも。でも。

私は大人ぶりたかったのかもしれない。だって「付き合ってよー!」なんて大人じゃない。「彼女にしてよー!」も。そしてそう言ったら、じゃ、そゆことで。と関係が切れていたかもしれない。切れていたかもしれないけれど、切れていなかったかもしれないし、別の展開になっていたかもしれない。

でも、洋服側も分かっている。薄々。もちろんスタメンじゃないし、たまにも声もかけてもらえないし。見つめてもらえるのは衣替えの時だけ。あ、そんなのもあったね。時々は鏡の前に出ることもできる。でも、外には出れないのだから。

可哀想。という言葉はあまり好きではない。大抵、その後に続く「こうすべし」の部分が私にはハマらない。可哀想なら、捨ててくれ。可哀想なら、言ってくれ。可哀想なら「元気で、幸せに」なんて言わず、「二度と顔を見せるな」くらい言ってくれ。

 

というのも極論過ぎてどうかしら。というのも確かに。ちゃんと説明するというのは相手が理論的な理解力のある人間ならいいだろう。私? は、全然聞くのになぁ。ちょっと涙は出ちゃうかもしれないけれど、どう考えているのか、ずーっと聞きたかったんだもの。私は単純に説明してくれれば良かったんだよ。

捨てられた洋服は主人を恨むのかと言ったらそうじゃない。少なくとも、ゴミにするという決意を持って、自分の手を汚して、嫌な感情を引き受けて、捨ててくれたんだもの。少なくとも私は最低限の信頼関係が築かれなければ一緒に過ごすことはないから、その礼儀を果たしてくれてありがとうって思うんだよ。

だからといって自分本位の理解で関係についてシビアに息の根を止めようとして冷徹、のような反応をされることもしばしばある。私は私がされたいようにしているだけで、しかもそれが愛と思ってしているので、きっぱりする方が大切にされていると感じてほしい(言い訳)。

 

私は、断捨離は得意。

箱は取っておくので、自分がその物の生涯を引き受ける性質ではないということも影響しているのかな。

でも、どうしても自分の所で息の根を止める必要がある物もある。そういう時はスパっと捨てる。当たり前だけどそんなの、買う時からゴミにする未来が見えているわけではないよ。でも、そういう瞬間が私は比較的早く訪れるから、その時の判断は一瞬で。今までありがとう、ごめんね。と。

 


他人が何を怖がっているのか、何と戦っているのか、私には知る術がない。推察するしかないが、本人が自分自身をどこまで理解しているかは謎だ。想像されるのも嫌だろうし、そんな人は話し合いもしたくないだろう。

理想を現実に移すだけが人生じゃないし、理想を持ってでも上手く行かない部分を何とかするのが人間だし人生だろうし、そこに正義とは悪は無い。それでも「ちゃんとゴミは捨てよう」と言っている人間のどれだけがゴミと思っている関係の息の根を自分の手で止めることができているのだろうか。

私は断捨離が得意でもよくゴミを出す日を忘れちゃう。

 

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