椿ちゃんと私

女の子 星

All photo by Annie Spratt

 

 

椿ちゃんと最初に出会ったのは、10年前くらいのことだ。

その時私は舞台の稽古をしていた。春か夏だったと思う。あまり元気とは思えない精神状態だったけれど、病気とも言えないくらいには元気だった。

女の子は突然頭の中に現れた。

次の日の稽古に向かう予定―ホームで電車を待って、電車に乗って、それからまた別の電車に乗りかえて―という流れを頭の中で想像していた時だった。

おかっぱのワンピースを着た女の子が想像の中に現れ、そして手に持った大きな鎌のようなもので私の首を切って去っていった。

女の子に切られた首は車内の床に転がった。他の乗客はいなかった。血はそんなに出なかった。もちろん想像の中なので、痛くはなかった。それでも私の心拍数は跳ね上がり、何が起きているのかしばらく理解できなかった。

もともとスプラッタやホラー系の映画やマンガは見ない主義だったし、夢で見るようなこともなかった。いきなり私の頭の中に降ったように湧いたその女の子は一体「何」なのか。

混乱したまま稽古へ行き、動揺した勢いで演出家と共演者に話した。少人数の稽古場(私を含めて3人)の空気はよどんだ。

でも、2人ともすごく心配してくれた。私は温かい気持ちをもらって胸がいっぱいだった。だから、女の子のことはどうでも良くなっていた。正体を知りたいという気持ちはあったけど、無理に解決しなくてもそれでいいじゃないのと思えたのだ(できるとも思えなかったし)。

しばらく頭の中をうろうろして、ときおり私の首を刈ったその女の子は、数か月でいなくなった。

 

人のいないベッド

 

それから5年は経ったと思う。

私は困っていた。人生が停滞し、何をしていても幸せじゃなかった。

藁をつかむ前に手あたり次第気分が良くなりそうな本を読んだ。とにかく救われたかった。その本の中に、インナーチャイルドの話が載っていた。

自分の中にいる小さな子供のような存在を認め、話しかけることで、認知していなかった問題を浮かび上がらせ、最後に和解する。それが自分を癒すことにつながるのだ。

私にはそんな子いないわ、と思いかけた時、おかっぱの女の子のことを思い出した。あの子は私だけど、私ではない。もしかして私が「これが私」と線を引いたところからはみ出てしまった問題そのもの、「私ならざる私」なのかもしれない。

頭の中の物置の中にその女の子はいた。暗闇の中でひざを抱え、ひどくおびえていた。泣いてはいなかった。泣くよりもにらみつけることで、自分を保っている。そんな危ういただの小さな女の子だった。

私は彼女に「椿ちゃん」と名前を付けた。

しばらく椿ちゃんと遊んでいると、彼女は完全に私の頭の中からいなくなった。

 

斧 子供

 

最近、椿ちゃんに首を切られた時と同じような気持ちになる。

車に乗っていて、突然事故にあうイメージが湧く。自分が運転していても、他人が運転している車に乗っていても、それは訪れる。

「一番怖くて痛い瞬間を繰り返し味わう」

私はこの感覚を知っていた。椿ちゃんはもういないはずなのに、私の中になぜかその機能が残っている。私は私に、壊れたレコードのように繰り返し痛みを与えようとする。なぜ私は「世界は私に理不尽な痛みを与える」と、自分の中に刻み込んでいるのだろうか。

心の中にもぐると、ある記憶に思い当った。

 

ベッドの上 女の子

 

私が小さかった頃、母はたびたび私を叩いた。

私は叩かれることが嫌だったし、人を叩こうとする気持ちも理解できなかった。

でも、母がストレスを抱えきれず、私を叩くことで発散しているという、ということだけは理解できた。物心がつく前から私は母の仕事の大変さを理解していた。

頻繁に叩かれるようになったのは、小学校に上がってからだと思う。

私は忘れ物が得意だった。学校に持っていくものも忘れたし、学校から家に持って帰ってくるものも忘れた。あだ名は忘れ物女王だった。

母は私の忘れ物を見つけるたびに叩いた。私はそれでも、忘れ物が叩かれる理由になるとは考えなかった。他人を叩く気持ちを絶対に理解しないと心に誓った。

成長して勉強ができなくなると、それも叩かれる理由になった。間違って叩かれたくなかったから、ドリルの答えを巻末の回答集から写した。解答欄がずれていたのでズルがばれ、また叩かれた。

椿ちゃんは、あの時叩かれていた私だ。事故のイメージで私に突っ込んでくる知らない車は、きっと母の手なのだ。

小さな頃に繰り返し叩き込まれた常識は大人になってからも子供をしばるのかもしれない。私の常識は「日常は突然、理解不可能な暴力によって壊される」だった。

それでも私は今、幸せで、のびのびと暮らしている。だから、頭の中に刻まれたイメージはどうでもいい。

心が痛くても、現実には何の影響もない。想像の中で幾度となく首をはねられ、何度交通事故にあっても、現実の私は生きている。あれはただのイメージだ。

 

椿の花

 

痛みはあった。それは事実だ。記憶からはまだ消えない。

消せないのなら選ぼうと思う。イメージを「痛み」として一生持ち続けるか、「取るに足らないこと」にして笑いとばすのか、どちらか。

私は後者にする。

イメージを「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の世界ではなく、「サウスパーク」の世界へ持っていこう。「ザ・シンプソンズ」でもいいかもしれない。クレイジーな彼らにかかれば、どんなシリアスな物語も笑いを構成するただのパーツにしてくれるだろう。

悲しみや恨む気持ちは私を癒さない。だから選ばない。ただそれだけ。許したとか、乗り越えたとかは今の私にとってはどうでもいい。椿ちゃんはもう現れない。

 

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