その恋人、あなたの分身につき

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だめんずが似合うのは、よくできる女だ。

かつて私もだめんずを引き寄せていた。だが「私にはバリキャリは無理」と、できる女をあきらめた(「よくできる」には永遠になれなかった)途端に、何だか良くわからないが面倒を見てくれるような男の人に出会うようになった。

これはきっと逆に私がよくできないだめ女になった効果であろう。ただ、私の場合は頑張ってだめになった訳ではなく、真実の私が(世間様の御触れに照らし合わせると)だめ女で、しかしそれはただの真実なのでそちらの方が心地よく生きやすいことに気づいた、ということでもある。

思うに本来人間というものは球体で、陰陽の図☯のように良い面も悪い面もある。善悪しかり、出来不出来しかり、美醜しかり。

負(と言われるような側)を認めないとこれらは身体からはみ出てゆくことになる。心理学用語で投影と言われたりもする。そのうちに認めるべき自分の「具」は目に見えない世界に浸透し、いずれ実態となって目の前に表れる。

なぜか。

恋人となってあなたと一体化するためである。

そしてあなたもまた、あなたの認められない「あなたの一部」に無意識で惹かれ、ときめきの名のもとに一体になりたいと望んでしまうのだ。

回りくどいのは、ストレートに認められないのだから、と神様が考えた苦肉の策だろう。

私はこういう人間関係や人間そのもの、心、そして精神などに美しさとグロテスクさを感じる。その両方が揃ってこそぐっとくる。美しいだけでも、グロテスクだけでも萌えない。人間を立体的に魅せているのは、美しさとグロテスクさの矛盾なのだから。

ただ、だからこそ自分のグロテスクさは受け止めてやらなければ堂々めぐりにもなる。恋人と付き合って、嫌になって、別れる。また付き合う。この輪廻に「省みる」を加えなければ解脱できない。

自分の負の部分を認めるには、相当な精神的強さが必要だ。得手不得手もあると感じる。私は生まれつき闇や影に片足突っ込んでいる人間なので、自分のネガティブと対峙することにそこまで苦しくはならない。

が、それが死ぬ以上の苦しみと考える人間もいるであろうことは想像できる。それは悪ではないと思う。ないと思うが、堂々はめぐってしまう。……でもそれでもいいのかな。無理やりやったってどうにもならないことはあるものね(私がバリキャリになれないということとか)。

けれど、本来は自分の担当箇所を延々と他人にやらせるということは、自分の根幹を他人に委ねるということでもある。人生の舵を預けるのは、果たして得策なのだろうかとも思うのだ。

きっとこうしてアウトソーシングが流行るのだろう。

例えば宗教。宗教に深くハマっている人が何を求めているかというと、「自分の本当の幸せとは何かと考えること」そして「その答え」を他人に求めている。もちろん、どんなものにも適量はあるから、自分がより良くなるため、自分の人生に反映させるために宗教をするなら全然いいと思うけれど。

自分の頭で考えることをやめたとしても、大人として世間を生きてゆくには誰かの考えに乗っかるしかない。

でも、あなたの人生の舵取りを、誰かにやらせてはだめ。

どんなに素晴らしい人で、安心できる相手でも、100%信頼できる人はいない。自分がそうであろうとすることは尊いけれど、相手を自分の人生まるごと預けるに値する相手だ、とするのはただの怠慢じゃあなかろうか。ガンジーでも、キリストでも、ブッダでもそうだと思う。(し、そんな感じのこと言っているはず)

もうだめんず(だめ女でもいいけど)に出会いたくないあなたは、立ち戻って、自分は何を他人にやらせようとしているのか考えることだ。

さらに「あなたの一部」を担った恋人の愚痴を吐いているうちは、自分にナイフをぶっ刺しているのと一緒。

あなた自身が用意した別名「あなたの恋人」を、じっくり観察してもいいし、ただ受け止めてもいいし、ケンカしてあなたの問題を浮かび上がらせてもいいだろう。

答えが分からない、だけど知らなければいけないことを考え続ける人生にこそ、成長と光が射すのではないか。そして、大変でも孤独でもちょっと辛かったりなんかしちゃったとしても、自分と向きあおうとする人を、私は心から愛し応援するのである。

 

前から気になってて、最近見た映画。(ブログの内容とはちょっと関係薄いんだけど)さすがの北欧、暗い。だが尊いヒューマンドラマ。映画「好きにならずにいられない」。原題の「フーシ」の方が私は好き。精神的大人向けかも。

 

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