投げ出したくなるような人生にこそ、愛を。(8449文字)

Tokyo Tower in the early morning

unsplash-logophoto by Jezael Melgoza

(加筆修正追記あり)

こんにちは。

緊迫している瞬間もあったような気もするけれど、比較的のんびりなここ石垣島です。ひとまずみんな元気です。みなさんも元気なことを私は信じています(翻訳が失敗したかのような文章)。

一瞬買い占め…というか多分多め買いでトイレットペーパーの棚が空になった(早々にドラッグストアの棚に1家族1個までって書いてあった)のだけど、実は島はよく物が無くなる場所なのでそんな光景は慣れっこだい。台風や時化で船が欠航すると島で作っていない野菜は一瞬で無くなるし、何なら台風来る前にラーメンの棚は空になります。

だからこそ島生活している人たちは常に物資をある程度貯めてる。去年の台風ではまる1日インターネットが不通になったし、13年前の台風では電柱ごとなぎ倒されて大規模停電。北部では復旧が遅れ電気が2週間来なかったそう。

それでもなんとかなるし生きてゆくんですね、当たり前だけど。

そもそも生まれ育った訳ではないのに、私みたいに島に住みに来るってことは便利を手放しているか、それらに期待する生活はしていないということ。さらに北部には商店はあってもコンビニは無い。が、その代わり美しい自然の中で生きることができたり頭を使ったり仲間と協力して乗り越えたりってことができる。そしてもちろん、それは楽しかったり、生きてる実感になったりするのだ素晴らしいじゃないか!

私は石垣の中でも普通に街に住んでいるので不自由ない生活を送らせてもらってます。しまむらもビレバンもモスも靴流通センターもサンエーもメイクマンも木田商会もあるよ。コンビニも沢山あるよ、全部ファミマだけど。

逆に時々東京に行くと情報と物質と人の洪水で一瞬でおぼれそうになってしまう。「足りない」って気持ちはどこまで行っても満たされないから怖いので、私は距離を置いておきたいです。いや、ていうか、毎日海が見れる以上の何を望むのだろうか…。

私が今まで行った世界含めた場所の中で一番素晴らしいのが石垣島です。

それはおいといて最近考えてたことを書いてみます。


ダメな人生など無いけれど、あるとするなら「自分が自分の人生にダメだなぁと思うことだけだ」と信じる今日この頃の私です。

だってどんなダメな人生だったとしてももうすでに人生としてそこにあるのだもの。存在はしてしまっている。そして在るから評価できるわけで。

なんでこんなややこしことを書くかと言うと、私は私の人生にものすごい不服感がずっとあってずーっともがいていたのです。

もがいてももがいてももがいても(あきらめない!)、人生満足度が上がらないなって思ってた。

満足度は端から見てたら分からない。実際、私は幾人かに「恵まれてる人生送ってる」てな評価をされているし、恵まれている部分も相当にあると思う。思うんだけどね。

けれど、例えば、私はマイケルジャクソンがエンターテイナーとして大好きなのだが、どれだけ売れていたとしても、どれだけ称賛をあびていたとしても、どれだけお金を持っていたとしても、それは人生の満足度とは別のものだ、と彼の人生を見ても思うのです。

心に空いている穴ってもうどうしようもなくて。その穴の正体はきっと「不満」であり「不安」のようなもの。満たされない部分があるということ。そしてそれは他人から見て全てを持っているように見える人だとしても全然関係ないってことだ。どんな人にもある。

逆に他人が見て「全てを持っている」という評価をされその上嫉妬されてしまうような人こそ、もともとの心の穴に加え「他人に理解されない」という気持ちが加算されてしまうのだろう。いつも笑っていて「悩みとか無さそうだよね」って言われてしまうような人も似た構造を持っている。

人生の満足度・幸福度には他人の目は関係ない。

どんな人生にも、誰の生きざまにも良い悪いなど無い。あるとするなら評価だけ。そして正当に(される価値がある)評価は、自分の人生に対する自分だけの評価。ここを間違ってしまうと、他人と比べる地獄が待っている。「足りない」地獄である。

世界が1枚の絵だと過程したなら、メインの部分とサブの部分に分けられるし、人によっては端っこの「こんな色好きじゃない」って思う箇所だったりするのだろう。

でもメインの部分を担う人たちだったとしても「あっちの方が良かった」「もっと地味な色が良かった」「この描写はしたくなかった」とか思うのだ。

何が問題を生むかと言うと、今、自分に与えられている物を却下する気持ち。

や、変えられる部分を変えようとするのは全然ありだと思うし、変えて楽しい気分になるならありだと思う。整形手術とかも。仕事とか、付き合う相手とか、住む場所とか。

ただ、足のサイズを変えたいとか、身長を骨格から変えたいとか(それでもできるならいいんだけど?)、変えられない…

つまり以下です。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。

ニーバーの祈り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

以上です。

なんかこの言葉は秀逸すぎてこれ以上付け足す必要は無い気がするのだけど、まだまだ今日の私はしゃべります。

 


最近は占いの勉強をしています。この占いは、誕生日からその人の生まれ持った運命と人生の流れを読み解くものです。

そこでは、人生が苦しくなる原因は主に「運命とその人の現状がかけ離れること」と説いています。

実践を大切にする占いなので、勉強の中で常に「ではどうすれば苦しみから救われるのか」てことを考えさせられます。そのためには運命を読み解く説明書をまず信じて、「どれだけそこから離れているのか」と考えることが大切です。

ちょっと横道にそれますが、占いにおいて「当たる」てのは重視されます。そもそも信頼関係を築けなければ占い師の言葉は届きませんので、関係のためにもある程度、たとえ占いから導かなくとも人となりを当てる必要はあるでしょう。

ただ、当てた先で救いをもたらすのは占いであるようで占いではないのですね。もちろん占いで当たった! は、占いはエンターテイメントであると言いたい私からすると、マジシャンが「おおー!」と言われるようなことをする、と同じ意味があるために絶対的に必要なもの。

けれど私がこの占い(算命学です)を信じるに値すると感じるわけは、当たるからではなく、もちろん当たるからもあるけれど、光を当てているのが「じゃあどうしたら苦しみをより少なくすることができるのか」って考えがあるからなんですね。

運命と現状の不一致が悩みや苦しみを生み出す。これだけ聞いても、少し心が安らかな気持ちになりませんこと?

私はかつて本八幡の駅で時間つぶしに占い師さんに占ってもらった時に「何で占い師になったのですか」と聞いたことがあるのです(料金払ってインタビューする趣味)。

50代くらいのすてきなおばさまはおっしゃいました。「私はかつて自分が結婚できないのが不思議だったの。だからなぜ? ということを知りたくて占いをはじめたのね。そうしたらそこには私が結婚できない理由が説明されていて、さらに晩年になったら結婚できることが書いてあったのよ。そして実際、52歳で最初の結婚をして、今は幸せに暮らしているの」と。

まだまだまだ若造だった私はショックだった。ある程度リベラルな親に育てられた上に結構変な人生を歩んでいたわりには常識という概念で凝り固まっていた私には衝撃のコメントだった。

そんな世界があるなんて!

いや今なら「お前今そういう人生な」って高みからビスコ食べながら冷静にも言えるのだけども。その時はなぜか私も(も、とか言ってる時点であやしいのだけど)20代後半から遅くとも30代前半には結婚して子供産んで育てて、ってなぜだか漠然とみんなそれをして、もちろん自分もそれをしているイメージだったから。

そして33歳くらいからしばらくはそれをできない自分に悩み苦しんだ。

がしかし、やっぱり占いには、先の占い師のおばさまが言っていたようなことが自分についても書いてあった。もちろん、運命だからと諦める気持ちより、やってやんよコラァ! という意思の方が占いより絶対的に大切だ。占いで言われたからなんて最初の指針にしてはいかん。が、変えられないこともまたあるということも身をもって理解するに至ったのであーる。

無事「何で可愛くて家事料理もできるのに結婚できないんだろうね?」(太字)の質問に食い気味で「運命だからです!」と言えるようになりましたとさ。別に運命を逃げ道にしたいわけじゃないから言わないけど。

そしてこの前の記事(箱はびりびりにしない派)でも書いたけど、勝手にそういう気持ちにもなるものだね。イエス! NO! ビリビリ!(yes noどっちだよ)

占いはさ、エンターテイメントであり人生や自分自身の天気予報だから、「知っておくと安心できる部分」があるんだよね。そして違ったらなぜ違ったんだろうと考えることもできるし。

あと、特に算命学をやっていると思うのだけど、人の人生というか運命の幅ってめちゃめちゃある。人の性質もそうだし、運命の流れもそうだし、例え同じ生年月日に生まれたとしても環境が運命と一致していたか不一致だったかによってその後の運気が大きく変わって来たり。

そういう腑に落ち具合もあって、私は最近子育てよりも自分育てに夢中である。

説明しよう!

私の中に育っていない子供(多分小さい時の私だろう)が居て、その子を育てている。食べたい物を食べさせ、行きたい所へ行き、やりたくないことはせず、極力その子と一緒に過ごしている。泣きたいときは泣かせる。眠りたいときは眠らせる。あやしながら仕事をするときもある。そして私はその子を育てながら、育っている。親が子供と同じ年数しか親ではないように。

この事実は、私の子供産みたい! という強い気持ち→けどなんか産める気がしないしそもそも結婚する予定無いし子供を責任もって育てられる気が全くしない、を、見事に浄化させているのである!!!

あと算命学の占いで私の性質・人生に書いてあった部分はざっくり以下である。

  • 女だと強情(なんだと!)
  • 自分の性質を変えられないし人の言うことを聞けない(なんだと!)
  • 好きな人とは結ばれない
  • 好きじゃない人に好かれる
  • そもそも好きなものが分からない
  • 仕事と親は特に「ちゃんとしよう」とすると苦しむ
  • 親縁は薄いから早く家を出ないと詰む
  • でも家から出にくい仕掛けもある
  • その分もらえるものはもらえる
  • けど家を出ても出なくてもどっちにしても一生心が休まることは無い
  • 中年期(35~60歳あたり)は精神世界でイ㌔

といった感じでございましてね。もちろん自分にとって良いことも書いてあったよ。けど私はここで書いてある通り親についてと結婚について上手く行きたかったのおおおおお!!!

嗚呼!!! もう!!! 畜生め!!! ヾ(:3ノシヾ)ノシ

私は恋多きみたいに言われることはあるけれどね、恋が得意ってわけじゃないんだよね。よく分かんないの。だから体当たりしかないなって思ってさ。バラエティの番組で「?」って書いてあるボックスに手を突っ込んで何かを当てるやつあるでしょう。あれに延々と手を突っ込んでいるの。単純に分からなかったから。そして上記を参考にすると永遠に分からないであろうことが予想される。

あーもー頑張っても、無理。

だから特に恋関係には諦めてるんだ。「でもいいじゃんとりあえず好かれるんでしょう?」好きじゃない人に好かれて? 好きな人には好かれなくて? モテるより自分の好きな人に好かれる方がいいに決まってるTT

でも救いがあるなら、私のタイプは基本的に「私を好きな人」なんだよね。「自分が相手を好きかどうか」ってのは後から付いてくる。これは若い時から気が付いた頃からなぜか諦念的だったんだよねー。本能は知ってるんだな。理性で「うぉらうぉ前がぅ好きだー!」ってやってみても通じなかったのは逆に大人になってからだった(このブログにもずらずら書いてあるぅ)。

あと自分が好きになったら壊れる。だから、自分は相手を1番好きって思えない呪いもある。相手が1番になったら自動的に相手から嫌われるシステム、これが呪いでなくてなんなのかと。

さらに衝撃的な文章はありましてね。テキストに『好きになるべきでない相手を好きになる』とも。ええ…もう恋愛について「何かしてる風で何にもしてないし前より悪くなってる」じゃない…? これが運命としてあるってどういうことなんだろうね! しかしね、私はほっとくとそうなるし、反対から言うとそうあるべきことが私ということなのだよワトソン君。

好きな人からは好かれず、好きでない人からしか好かれず、仮に好きになったとしてもそれは好きになるべき相手ではなく(何してんの自分よ!)、さらにさらに関係は壊れます。しかしこれこそが私の生きる道。

そう、ここでね、やっと。やーっと本気で諦めようってなったんですよ奥さん。

今まで自分が経験してきたことがあああ! やっぱり! やっぱりそうだったんだね! って悲しい方向だとしても一致してごらんなさいな。救い以外の何でもないんだよ。

悲しさよりも全然嬉しいんだよ。やっと自分の人生の理解者が現われたって。ひどいこと言われて嬉しい、とかじゃないんだよ。ダンサー・イン・ザ・ダークなんだよ。ドック・ヴィルなんだよ。喜び光り輝き幸せ美しさで救われることの裏側には、悲しみ苦しみ痛み辛さ死にたい消えたいもう生きられないの中で救われる事実があるということなんだよ。

もちろんあえてそっちだけに目を向け続ける必要はない。それは幸せだけに目を向け続けるのと同じくらい不自然だからね。中庸。(どうでもいいけど最近ちゅうえいにハマっているからみんな見て笑ってほしい)

それでも、それでも生きるんだわたしはー!

ひーじ! ひーじ!

 


マジで色んな人がいて、自分の思うように生きれないこともあって、そのことを悲しむ人もいる。私も最初はさみしかったさ。比較的運が良い人(占い的に想いや願いが通りやすい人がいる)に「願えば叶うよ」とか言われて信じてやってみて全然絶望しかなくて後から(あっ性質の違いってあるんだ)って知ってよくよく今までのこと考えてみたら全然「選べない」人生だったなって。これがいい! って指さした奴と違う物をプレゼントされる人生だったなって。それでも他人は「でもいいじゃんもらえてるんだし」とか言うけど私の欲しいものはそれじゃぁなあああい!!!

ね。

でも私は、だから全部を手放して生きていこうって思ったのでした。そしたら

すっ 

ごい楽でね。自分の人生を地獄たらしめるのは自分でしかないんだなと。もうすでに在るものに、そして変わらないものにダメ出しし続けるのはいかがなものかと思いましてね。今は「選べないけど端から見たらそれなりに良い物もらえる人生」だと言うことを理解したら毎日のほほんと暮らせるものだなと思っているのでございます。

『努力で何とかなるって言ってる人は、努力で何とかなる範囲しか生きてない人だ』っていうのも、あれ、努力が叶いやすい人に叶いにくい人がきっと言ってるんだろうなぁ。

だから後者の気持ち分かるな。実際裏目に出やすい人はいるから。裏目に出にくい人からしたら何でそんなところで躓いてるの? だろうなぁ。本当はマリーアントワネットはそういう意味では言ってない(2重に)だろうけどそういう感じに聞こえちゃうんだろうなぁ。

私の人生は、死ぬまで精神鍛錬なんですって。日常「ぐぬぬ」を感じるのが運命でありナチュラルなんだって。面白いよね。もうブログの名前ぐぬぬにしようかな、しないけど。ここから逃げようとしてもいいんだけど、それって犬が猫になろうとすることのような、人間が魚になろうとすることのような、そういう不毛さがあるんだ。

あえて言うなら、陸に上がった魚でいること、陸に上がった魚のような状態で生きることが私。

そんでもって人生にはちょっとした意味はあるけど、深い意味などないって考えるとめちゃスッキリする。目に見えない世界の因果はあると思うけど、目に見えないから私は現実のグッズ(自分や自分の人生や占い)で納得できる意味を探し出し、納得するしかない。しかしいつか死ぬということはそこまで(魂は分からないが存続しない肉体は特に)重要ではない(死ぬこと含めて重要かもだけど)という。

あと、仕事に関しても今は諦めている。

毎日、常識から考えたら「何もしない」どころか「遊んでいるだけ」の状態がとても楽で楽しくて幸せ。

とは言ってもこれも「働かないと!」「ちゃんとしないと!」「大人にならないと!」ってなってたときはお金もそれなりにあって仕事もそれなりに評価はされていたんだけどただただしんどかった。自分が紙クズみたいに思えてた。洗濯機から出てきたティッシュみたいにね☆彡人の成功も喜べなかったし、幸せな人に心から良かったねなんて言えなかった。

今のところだから、ニートが天職なような。

けれどもやらなきゃいけない仕事はあって、しかしそれは現代社会における「ちゃんとした仕事」ではなく。説明難しいけど「必ずやらなきゃいけない仕事がそのうち来るのだけど今はパワーを貯めてる」みたいな感じかもしれない。し、一生ふら~って生きるのかもしれない。

占いも知りたいこと全て教えてくれるわけじゃないからまた面白い。私の人生がどう転ぶかは、この先のありとあらゆる勉強と自分の人生というフィードバックを使って精査されてゆくだろうし、してゆきたいなと感じる次第です。

 

私はこんな感じで自分のことしか話せないのだけど、ここで書くことは全て自分を愛するってことに繋がっていると思う。自分育てにも。そして欲しい物が手に入らなくて苦しい人へ、私は「諦めなさい」と笑顔で言える。手に入らないという状況には誰にでもあるけれど、それにダメ出しをすることで苦しみを付与しているのは自分自身だということを今は知っているから。

あと期待しないで聞いてほしいけど諦めたら手に入ることはあるよ(でも絶対じゃないし手に入れるために諦めたフリしても意味ないよね諦めたことになってないから…つらたん)。

…欲しい物を諦められないし苦しんでいても良いというのなら全然とめないけどね!

諦めは愛だよ。受容だよ。負けではないよ。「そっかー、辛かったね自分、欲しい物もらえなかったねーよしよし」なんて愛以外の何であろうか。理解が勝利ではなく何だというのだろうか。愛があるから抱きしめられる。私は今まで自分をどう扱ってきただろうか。ま、それも含めて自分かもしれないけれど。

こんな人生があってもいいと私は思い、言い続ける。普通は普通として尊重されたら良いし、普通じゃないは普通じゃないとして尊重されたら良い(陰陽五行の観点からしても両方ある)。

私の『こんな人生』を全てアリーナで見ているのは自分であり、その評価が絶対である。この芝居の上演は基本的に私にのみ向けられている。私しか知らないこともある。私しか理解できないことが大半である。ゆえに私以外のよくわからん奴に限ってしたり顔で批判してきたりする。どうだろう。この芝居はヤバければヤバいほど愛着がわかないだろうか。

そうして私を受け入れることができてやっと他人も受け入れることができるようになったな、私は。自分の人生を自分が普通に見ることができるから他人もフラットに眺めることができるんだ。

どんな人生があってもいい。って思って生きる世界はマジで楽しい。

…って最後締めようと思ったけど眠すぎて英語でかっこよく締まった風にしてしまった。朝起きて見たら(正確には朝6時から10時に最初のを書いて2時間寝て12時に起きて見たら)全然締まってなくて笑った。ライター辞めちまえ! (どちらかと言うとブロガーな気がしてきたライターを名乗ってみてる37歳)。

あと書きたかったことは、そうそう、自分の人生が納得してなくてもイヤでもキラいでも愛すことはできるなって思ったんだった。

嫌いな物を好きになるのは無理だし、理想になれない自分も自分の人生も納得してなくていい。何なら受け入れることもしなくていい。でも、全然いらない人生でも、愛することはできる。絶対。

この場合においての愛するってなんだろうな。嫌いな身内の存在を嫌いだなって思いながらも生きてていいよって認めるみたいな感じかな。だから距離取っていいだろうし自分のものと認めなくてもいいし(特に自分が選んだ訳じゃないから受け入れられないのも当然と思う)、「(黙って頷く)」、これでいんじゃないかな。

最近私はそんな感じの距離感で過ごしているって話でした。世間には認められないだろうことがいっぱいなんだけど、自分には認められてて気分が良いのでした。お後がよろしいようで。

 

 

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