【日記】おじいちゃんは死んでない気がする件

発信画面

しょっぱなから変なこと言ってすみません。

昔から死生観が若干バグっている冬月です。

私は永六輔さんの大往生を小学6年生の時読んで「みんないい人生過ごして良かったな!」とか思っていた記憶もあり、そもそも、死んでしまうことへの寂しさとかはあんまりない人間でした。※不慮は別ですが

(余談ですが、祖父と祖母が亡くなった話をインスタでマンガにまとめました【プロローグ】【おじいちゃん編】【おばあちゃん編】サキさん←冬月ですw)

祖父と祖母が死んでからは、いわゆる「会えない人」に想いを馳せることが多くなりました。

特におじいちゃん。

今、何しているのかなぁ? と。

しかし、目の前に居ないという意味では、自分の親も同じでは? と思う。(会っていない人全てに言える)

しいて違いを上げるなら、生きている人には、電話をしたりメールをしたりできるということ。

でも、たとえば今この瞬間生きていても、目の前にいないってことは死んでいるのとそう変わらないのでは。

 

最近死んだ母方のおばあちゃんは、アルツハイマーを発症し、10年ほど意思の疎通ができず寝たきりで、いわば植物人間(目は開けたりしてたけど)のようだった。

目の前に物質として存在しても、精神がどこかへ行ってしまっているおばあちゃんと疎通できないということは、現在一緒に暮らしていない両親と 電話やメールがなくては疎通ができないということと、大差はない気がしている。

というか、なんでそんな会ってない人の「生きている感じ」を信じられるのだろう? とも思ったりする。(む、でも後から考えたら、そう信じないと心配性の人はやってられないなとも思った)

さらに、さっき父に電話をかけて、ふと「霊能者っていうのは霊界と電話ができる人なのでは」とひらめいた。勝手に言ってるだけなので、あまり気にしないでいただきたい(異論はもちろん認める)が、目の前に居ない父と電話をするのと、死んでしまったおじいちゃんと霊能者の人を通じて話をするのは何が違うのだろうか。

私の感覚ではいたって同じなのである。

死んだ人は、空路も陸路も海路もない、遠い外国のような所に居る。直接の連絡は取れないけれど、居るのである。だって私は、今までの定説の「死ぬ」という感覚が全然わからない。だっておじいちゃんは、この世(私の感覚が宇宙まで拡大していたり次元を超えているのかもしれないが)に居るから。

いわゆる死ぬって、消えるかと思っていたんだけど、どうやら消滅はしていないっぽいんだよね。なので、

死んではいるけど、死んでない。

という言葉になる。

うん、連絡はね、私個人では取れないんだけど。

でもだからそれだって、例えば、生きているけれど、電話番号も住所も現在の名前すらも分からない人とどこが違うのだろうかと思うのだ。

 

こうやって私が考えてしまう理由のひとつに、今、自分でやっている「ルーツ探し」がある。

私の母(青森市出身)、の母(おばあちゃん・2019年に亡くなった)、の母(おばあちゃんの生みの親)、のお父さんについて調べているからである。そのうち別記事でUPする予定である。

その人の名前は谷口堅盤。

高祖父って言うらしい。私は、玄孫にあたる。

苗字もなじみがないし、名前も聞いたことなかったから、まるで知らない人なのだけど、調べ始めてから、なんというか今まで感じることのできなかった「先祖っぽいなんか」(エネルギー? 感覚? よくわからないのだが)を、なんとなく感じるようになった。気がする。

して、私が小指ヒビ事件が起こったと同時に、母の妹も小指をぶつけて痛めており、小指ヒビ事件は自分にとって全然やな感じじゃなかったから、自分のルーツ探しをし始めた私に対して先祖がやれ!(外に出かけて遊んでないで目の前のことやってねの意)って言っていたのではないかって感じている。

目に見えない世界について、一方的な片思いで、自分霊感無いな~w って思ってたけど、少しはあるそう(霊感ある先生に見てもらった)なので、この感覚もきっと100%間違い、ではないのだと、思う。わかんないけど。もう。わかんないことだらけだね。

それでも、私は自分の確信を持つし、自分独自の確信を持つってことは他人の確信を尊重する。し、だから、人から、「そんなことあるわけないじゃん」と言われてしまうような、しかし自分の中にしっかりと実感があるようなことこそ、自分だけはちゃんと信じてあげていいと思うのだ。

思うのだよ。

 

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